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2015年8月24日月曜日

いい死に方を考える必要もあったりします。


参考元:読売新聞

高齢者「虚弱」対策、要介護の一歩手前で防げ…自治体に10億助成へ



生きることや死ぬことを考える際の疑問

私のように生きることを考えると、逆に死に方を考えることもあります。
 その中で、ひょっとすると死なせてあげる自由もあるのかも知れない、と私個人として考えることもあります。
 それまでに自分の生きることをすでに全うしたのだとしたら、それを無理に生かす必要や強制力は国や家族にあるのか疑問です。


若者と老人との違い

確かに若者や中年の方が自らの命を絶つことに関しては後々にまだ大逆転があるかもしれないと考えられる意味で、予防をする意味はあるのかもしれません。しかし仮に老人が、他の人に無理やり生かされたとしてどういう効果があるのでしょうか。
 生きていても税金を積極的に払ってもらえるわけでなし、むしろ医療費が多くかかることのあることから家族も国もあまり良い存在とはいえない可能性もあります。


自然のあり方があっても良い?

ですから積極的に老人を殺せ、と言っているわけではありませんが場合によってはもう少し、自然な形で生きるを支える、そういった環境を作っても良いのではないかなと思います。
 もちろん本人が生きたいと積極的に思っているのならば、それを全力で支える必要があるのだとは思いますけども。

2015年8月16日日曜日

歴史は大事だがこだわりすぎるのは問題

戦後70年、続く歴史論議 靖国問題の収束見えず  安保審議にも影響  首相、中韓と修復模索より


歴史は長く続くが人は変わる。

日本は国家としては世界一長く続いているらしい。そうした意味で歴史は続いているが、人は死に構成も入れ替わっている。そうした中で国家の責任を個人として永遠に負い続けるべきかというと疑問がある。
 復讐の連鎖は終わらないように、こだわり続けることで終わりが見えなくなる可能性がある。

歴史は誰が収束させたくないか。

歴史問題に収束が見えないのではなくて、どこか収束させたたくないと思うことで誰かが何かしらの利益を有していると考える。特定アジアであろうし、歴史学者でもあろう。彼らは歴史が解決してしまうと食い扶持がなくなるからだ。


歴史は大事だが、こだわるのとは違う。

歴史は今後生きる意味で大事である。それを用いることで今後をよりよく生きられる可能性はある。しかし歴史を使うのと、それにこだわり続けるのは意味が違う。先日朝日新聞デジタルからあべ談話も全文見させていただいたが、ここでも、「過去のことを歴史として認識してわれわれが寄りよい環境を作っていこう」と書かれていた。まさにそのとおりだと思う。

2015年8月9日日曜日

事実に基づいた情報を発信する。


参考元:産経新聞

「中韓の主張を子供に刷り込まないでほしい」長崎被爆の伝承妨げる“政治の語り部” 島原・有明中の校長に聞く


政治は誰が正しいという話は無い。 

政治的な問題は互いに自分の利益になるように働く、だからどちらが正しいということは無い。
 正しい正解が無いゆえ、えてして声の大きいほうが主張を採用されてしまう場合がある。これは問題である。


正しいことが無いだけで何をよりどころとするか。

そこで声の大きさといった感情に訴えるものではなく、理論的に論を通す、事実に基づいた主張をするといった考え方が大事になるような気がする。

 これは政治的な部分だけでなくても、我々の普段の生活でも生かすことができるのではないか。確かに感情的に言うことはラクだしそれで自分の主張が通るのだったら誰しもそれを推し進めようとするのかもしれない。

 しかし事実に基づいた論にはいくら声が大きくても勝てない。これは十分知る必要があるように思う。