2015年8月28日金曜日

自己運用の重要性

参考元:ビジネスジャーナル

格安SIM、実はハードル高い?ガラケー併用じゃないと厳しい?

ウソだらけの確定申告、知らないと損する 狙い目は期限翌日、知らぬ間に税金払いすぎ

 

携帯電話と税金

携帯電話の会社は基本的にドコモ、AU,SBと言った大きな会社が主にある。これらを選択することは容易だが、費用が高く払う必要がある。最近では主要三社だけでなく安いSIMを用いる場合もあり、選択のしかたによっては安く運用することも出来る。

 また税金の払いに関しても同じだ。会社員などの場合、会社にまかせっきりにすることで楽にはなるものの、知らず知らずのうちに高い税金を払って居ることは少なくない。


選択と不安

選択する不安はあるが場合によってはいずれも自分の生き方を選択する不安はあるものの、思い切った選択をすることで自分の生活良いようにカスタマイズすることが可能だ。すると自分にあった形でそれぞれのサービスを利用することが出来る。

 選択のし間違えるリスクはあるものの、最初の一歩を動かさないと自分にあった利益を得られない。自分の最適な生き方を選択する場合には不安を持ちながら動く必要があるということだ。

数学の使い方


鹿児島知事:「女子に三角関数教えて何になるのか」


数学とは

数学は本来概念を学んだり、論理構成方法を考える学問である。
 近年、中等教育を学ぶものの多くはテストで高得点を取ることだけを考える。するとそれを使って考えるといったことは少ない。これは問題である。


数学教師として求められると考えられるもの

そこで数学を使う場合において、それがどのような点で生かすことが出来るか、応用例のようなものを説明できる教師が必要である。
 つまり、教師が楽しさや面白さを教えることが出来れば教わる側も興味を持って取り組むことが出来るのではないか、と考える。

何を虐待とするか


時給200円も、障害者に「経済的虐待」


虐待の基準

何を虐待とするかというところもあるし経済的虐待と言うのも何か理解されにくい。そもそも福祉には契約を締結しない就労支援B型というものが法律で定められており、そこを対象としているならば200円の場所はざらにある。


福祉と一般会社では金の周りが異なる。

普通の会社は物を売って賃金を得るが、福祉の業界での助成金などを前提に考えている。だから金の回り方が異なる。

 それを知った上で、何を大事にするかが大事である。障害者の一般企業での就労に関しては場合によって経験を得ると言う場面でもあるからだ。

 だからたとえ賃金が少なかったとしても、経験として得られるものは賃金以上なこともあるのではないかと考える。

2015年8月24日月曜日

自分の強みを見出す必要性。


参考元:日経新聞

ホソカワ、リチウムイオン電池支える微粒子の技

 

顧客向けと企業間取引の違い

BTOC即ち一方顧客向けの商売の場合、一社が一つの製品を独占した場合、通常独占禁止法などが適用される。
 一方、BTOB即ち企業間取引をする場合にはこれが公然として摘発されることはない。


なぜそのような商売が成り立つか

なぜなら世界で一社しかその製品を作っていなければそれを使わなければ成り立たないと言った部分もあるし、品質を担保する必要であるからだろうと考える。

 宇宙船の技術に東大阪の技術が使われている例もあるが、こうしたオンリーワンの技術を持った会社は強く、景気に左右される商売をしていない。


そこで独自性を見出すには

そうした独自性を見出すにはとことんまで技術向上を考え、自社と他者との違いが明確にする必要があると考える。場合によっては相手のしないことをあえて積極的にすることで独自性を見出す場合もあるようだ。

 一方で、企業規模が大きくなると目が行き届かなくなり技術流出をする恐れもある。だからあえて大きくせずに小さな会社のまま独自性を誇っている会社があるのだろう。

いい死に方を考える必要もあったりします。


参考元:読売新聞

高齢者「虚弱」対策、要介護の一歩手前で防げ…自治体に10億助成へ



生きることや死ぬことを考える際の疑問

私のように生きることを考えると、逆に死に方を考えることもあります。
 その中で、ひょっとすると死なせてあげる自由もあるのかも知れない、と私個人として考えることもあります。
 それまでに自分の生きることをすでに全うしたのだとしたら、それを無理に生かす必要や強制力は国や家族にあるのか疑問です。


若者と老人との違い

確かに若者や中年の方が自らの命を絶つことに関しては後々にまだ大逆転があるかもしれないと考えられる意味で、予防をする意味はあるのかもしれません。しかし仮に老人が、他の人に無理やり生かされたとしてどういう効果があるのでしょうか。
 生きていても税金を積極的に払ってもらえるわけでなし、むしろ医療費が多くかかることのあることから家族も国もあまり良い存在とはいえない可能性もあります。


自然のあり方があっても良い?

ですから積極的に老人を殺せ、と言っているわけではありませんが場合によってはもう少し、自然な形で生きるを支える、そういった環境を作っても良いのではないかなと思います。
 もちろん本人が生きたいと積極的に思っているのならば、それを全力で支える必要があるのだとは思いますけども。

2015年8月20日木曜日

一時期の成功に甘んじすぎると危険


参考元:おたぱる

 

生活の質はそう簡単に落とせない

キャバクラで働くお姉さんは生活の質を落とせずどんどん悪路に行くといわれている。これは自分の立ち居地が見えていないことずっと先にある最高を目指しているからだと思われる。

 芸能人の美への影響についても同じだ。一時期もてはやされるとそれからさらにもっとよくなる、もっと絶賛されるはずだと思ってこれまでてこ入れしていた場合、さらにてこ入れすることがある。


現実感覚の目を導き出すには

そうした勘違いを勘違いとして知り、是正する場合には二種類の方法がある。①自ら徐々に現実へのたな卸しをすること②外的な違いを知ることだ。
 通常①を知ることは相当な忍耐力がないとできない。多くは自らを改善することなく、もう自分ではどうしようもない状態になってから最終的に②の状況を味わうことがあるように思う。

 そうした挫折を味わっても改善しようと思うことができれば、いくら遅く気が付いたとしても対処のしようがある。ただ②のような現実と自分との理想が異なった場合でも現実を拒否し続けてしまうと最終的には精神疾患などの病気になってしまう。

 すると余計に医療費がかかることなる。場合によっては税金を使う必要も出てくるためみなにとって困ることとなりうるのだ。そうした意味で予防的な対処が必要となる。

物事が変化していることを受け入れる


参考:毎日新聞

強化ガラス食器破損:3年で事故45件 破片で指けがも



物事は変化しつつある

人間もそうだがものに関してもいつかは壊れ、なくなる。これが理解できないと行動をとるのは難しい。

 そもそも科学の業界では常識だが、微細の環境下では微生物はもちろん物質すべてが運動をしている。
 ものが動くということは何らかのエネルギーを使っているわけでエネルギーがなくなったところが動かず「死ぬ」のである。


特殊な物質・ガラス/人間

そうした法則のうちガラスの場合は、これは特殊な物質である。固体なようで液体といわれて言るがいずれも物質である以上いつかは死に、壊れる。

 ぱっと見る場合には、なかなか気づきにくい部分はあるかもしれないが、実は何らかの影響が微細なところで変化している。じょじょに劣化している場合のあることを知ること、およびそうした変化のあることを受け入れる必要がある。

 こうした変化のあることを知ることは物質だけでなく人間の成長でも大事である。

2015年8月19日水曜日

通信業界の流動化が起こっている


参考:ITmedia Mobile

mineoが「ドコモプラン」の詳細発表、“使える端末が最も多い”MVNOに――500Mバイト/700円から auプランも値下げ (1/2)


MVNOが多くの回線を持つようになった。

MINEOは現在AUのMVNOとして知られる。ドコモに比べたらエリアが広いわけでもなく、またAUの回線網(CDMA)を用いていることから通話とデータ通信が同時に出来ないといった欠点はあるものの、CDMA回線で国内唯一のMVNOとして
猛威を振るってきた部分があるのだろう。

 一方、これまでドコモの回線をMVNOで引いてきた日本通信がソフトバンクの回線を扱うといった記事も最近出た。一部のブログでは「特徴的な組み合わせ」だ、
と言った記事も出ているものの、エリアが拡大しているとソフトバンクが言っていることからそれはそれで有利なのかもしれない。


土管屋は更なる改善が求められる。

このように通信手段の流動化が起こるとますますMNOのドコモ、AU、SBは大変になるのではないかと感じる。

 より特徴的で消費者にとって有利なサービスを提供する必要があるからだ。もしくはMVNOに対抗する意味で安い回線を作る必要が出てくるかもしれない。

われわれの生活の変化

一方これまでその回線を引いてきた専門家が商社によって多くの回線が扱われるというようになると、これまで回線屋に任せていた通信手段を自分でどれを選ぶか考えざるを得なくなる。そのような選ぶことに対する不安を持っている方ももしかしたら居るのかもしれない。

管理者は発明の環境を整えよう。

 参考:日経コンピュータ

「こんなもの、おもちゃだ」と批判されるのが破壊的イノベーション

 

否定したい人の気持ち

新しい発見や発明をする場合に簡単に否定してくる人が居る。確かに失敗したときのリスク背負いたくないであったり、より完璧な製品を作りたいと思っている場合そのような否定から入ることもあるだろう。しかしそれがすべてではない。


一方でイノベーションする人の気持ち

また新たなイノベーションをする人は外野である相手がどんなに否定したとしても
それを覆すだけの気力がある。他人がやいややいや言ったからと言って自分の意見を引っ込めてしまうようならばやはりその程度の考えだったのだ思わざるを得ない。


イノベーションを発展させるためには

そのためイノベーションを起こすことを考える場合、回りとしてサポートすることはもちろん、自分の心を鍛える必要がある。それらの環境を整備するためには管理者がそのように働きかけることが大事だ。

2015年8月18日火曜日


参考:ニコニコニュース

「空欄埋めて書く」感想文テンプレ


子供の判断、大人の判断

子供のうちは自分の価値や判断が出来にくいため親なり先生なりの価値に従うことはあるかもしれない。
 しかし大人になってもそのようであると実に幼い。自分の人生くらい自分で決めて生きてみてはと思う。


なぜ判断が鈍るか

それは求めれば得られる時代だからなのかもしれない。しかし求めても得られないことを知ることは時に大事だ。

 読書感想文でもそうである。日本の国語ではあまり文書構成法の授業はしない。好きなように書いていいですよ、とはいうものの、それだとおそらく何も伝わらない文章を書く場合もあるのではないかと考える。


与えられない状況で大切なもの、自分で掴み取る気持ち

そこである種の「型」に従って自分で身に着けざるを得ないわけだが、その際、その中で掴み取ろうと思うことが大事である。

 そうした気持ちをもつことで自分なりに船で言うところの碇。心理学で言うところのアンカーリングを持つことは望まれる。ただしそれが万人に適応できるものではない。

 他人が自分のことを決められるはずはないからだ。そうした意味で、手取り足取りなんでもしてあげる、といったこととは無駄な甘えを助長させる意味でよくない。

理系も文系も無い。必要なものはバランス


参考元:NHK

リケジョ育成後押しへ職場体験など実施


理系は素晴らしいかもしれないが

かつて私も理系に居たことから、理系の考えを全国に推進することこれ自体はとても良いことだと思う。
 しかしそれに偏り過ぎるのは問題で、中身をどうするか考えることが大事と考える。
 研究の方法などでもいえることではあるが、実を言うところ理系であろうが文系であろうが基本的なスタンスは変わらないものといえる。


理系の考えを推進しすぎると

なお、理系の考えを第一にしすぎると、感情などと言うものは一切いらないような機械的なことが良いとする部分はなる。しかしそもそも物事は物理法則のようにそうやすやすと動かないこともある。

 特に人間関係を維持したり発展させようとした場合には、理屈だけではどうともいえなくなることがある。いくら機能的に有効な製品であろうとお得意様であったり良く知った人からものを買いたい、などと思うことはあって当然だと思うからだ。


よって必要なのはバランス

翻って感情第一にしすぎるのもそれはそれで問題はあるが、ようは理屈的な部分を学ぶ部分と人の感情を考える部分とで、バランスを取って学ぶ姿勢を持つことが重要である。


2015年8月17日月曜日

音楽ってそんなに重要?


 参照:弁護士ドットコムニュース

イヤホンで音楽を聴きながら「自転車」運転ーー人をはねてしまった場合の責任は?



 私は自分が事故をしたら痛いから嫌だし人を傷つけたらそれで損害賠償請求があることを考えるとよっぽどのことが無い限り音楽を聴きながら運転などはしない。

 特に町で自転車を運転する人がイヤホンをしているのを見ると何をしているのだろうなと感じることはある。

 そもそもそんなにイヤホンで聴くような音楽があるのか。確かにテンションはあがることもあるだろうし、気分を良い雰囲気に変えたいと思う部分はあるかもしれない。しかしそれで自分の命を落としてしまったり相手に怪我を負わせてしまっては本末転倒になってしまうのではないかと感じる。

 もちろん私もゆったりした雰囲気に居るときには音楽を聴くことはあるし、それでいい気分になったりすることはある。しかし運転しているときにはあまり音楽はかけない。運転に集中したいからというのもあるからだ。

2015年8月16日日曜日

日本には日本のよさを

スマホ大型化、サムスン逆襲 新型発表、アップルに先行

 

アメリカ的な大型かから日本型の小型・高機能化へ

私は15年前の高校生のころから携帯を使っていて、今でもそれらの情報を調べるのが好きだ。

 最近の携帯はアメリカ的な大型化や高性能化が声高々に言われている。確かにそれはしやすいし見た目もわかりやすい。

 しかし日本の得意分野はそのような部分ではない。小型化あるいは高機能化である。それができたからこれまで多く分野で活躍の場面が見られてきた。

 最近はそうでもないが一昔前は小さい携帯がはやっていて、私はそれを今でも使っている。

 確かにボタンは押しにくいし、小さいのでなくし易い。おまけに今ではスペックの面で弱い部分はあるが、それでも小ささはひとつのアイデンティティだと思う。そうした意味でかつての小型携帯の出ることを私は望む。

歴史は大事だがこだわりすぎるのは問題

戦後70年、続く歴史論議 靖国問題の収束見えず  安保審議にも影響  首相、中韓と修復模索より


歴史は長く続くが人は変わる。

日本は国家としては世界一長く続いているらしい。そうした意味で歴史は続いているが、人は死に構成も入れ替わっている。そうした中で国家の責任を個人として永遠に負い続けるべきかというと疑問がある。
 復讐の連鎖は終わらないように、こだわり続けることで終わりが見えなくなる可能性がある。

歴史は誰が収束させたくないか。

歴史問題に収束が見えないのではなくて、どこか収束させたたくないと思うことで誰かが何かしらの利益を有していると考える。特定アジアであろうし、歴史学者でもあろう。彼らは歴史が解決してしまうと食い扶持がなくなるからだ。


歴史は大事だが、こだわるのとは違う。

歴史は今後生きる意味で大事である。それを用いることで今後をよりよく生きられる可能性はある。しかし歴史を使うのと、それにこだわり続けるのは意味が違う。先日朝日新聞デジタルからあべ談話も全文見させていただいたが、ここでも、「過去のことを歴史として認識してわれわれが寄りよい環境を作っていこう」と書かれていた。まさにそのとおりだと思う。

2015年8月15日土曜日

男性と女性は違う


参考:ニュースウォーカー

銀座の新名所“相席カフェ”がオープンより



女性と男性の特徴

 女性は古くから群れる習性があり、それゆえ相手との共感を大事にしている。脳幹も男性に比べて太いことから感情が優位に働いていることは明らかだ。

 それに比べて男性は狩猟を目的としているため群れる必要が無く、どちらかというと感情を出すことが少ない。それゆえ深刻な問題が発生した場合においてもそれを相談することが少なく、場合によっては自殺しやすいといわれている。


社会サービスで両者をつなぎたいが。

そうした寂しい男性に向けて、お金を取る代わりに出会えるカフェみたいなものを作ろう、そうすれば儲かるはずだ、と言った理由で会社が出会いカフェなるものを作るのであろうが、儲かるのかはまた疑問である。

 そら男性はお金を払うだけで女性と出会えると思い来ることはあるのかもしれない。が、女性は来ることが少ないのではないか。なぜなら上記で示したとおり女性は共感を大事にするからだ。


そこで女性を呼び込むサービスを考える。

よって女性を呼び込むのであれば、共感できやすい環境を作るのが良いと考える。

 例えばおいしい料理であるとか、楽しさを得られる場所であるとか。赤ちゃんなんてものも置いておくのもよいかもしれない。

 しかしそれだと来やすくはなるものの、仲間とのけん制を狙ったり、あるいは嫉妬の気持ちを生んだりして単独客が来にくくなる。

 男性は共感をすることが望まれるが、出会うためにそこまでするか、と思うだろう。

 すると噂が噂を呼んで誰も来なくなるかもしれない。これは問題だ。

 そこで単独客のプライバシーを配慮しながら、女性一人でもこられ、共感を呼べる。
 一方で男性にそうした女性心理を理解してもらいそれを対面で披露する、なんて場所であったらひょっとすると儲かるのかもしれない。

 極めてニッチな市場であると思うし結婚相談所とはどう違うのか知りたい部分はあるが。

2015年8月14日金曜日

誰しも管理者に向いているわけではない。

参考:朝日新聞

教頭先生はつらいよ 激務で昇任敬遠、自ら望んで降格もより


一般的な価値観

多くの人はどうも年をとって経験が重なってくると、偉くなることや管理者になることが良しとする考えになってしまうようです。

 確かに年老いてくると若い頃のような場合とは違って、体力的な衰えもあることから仕事の内容としては変わっていかざるを得ない部分はあるのかもしれません。ずっと体力仕事をし続けることは不可能だと思います。


それぞれに生かせる部分はある

しかし、そうしたことが全て管理者や偉くなることにつながるかといったことには疑問が有ります。嫉妬することも無意味ですし、そもそも人は皆違うのです。ですから偉くなったり管理者にならなかったとしても、自分の満足いくことができれば問題ないのではないでしょうか。

 即ち自分の身の振り方を自分で見極めるであるとか、適材適所を自分の中でも見極める必要があるのだと思います。

 そもそも偉くなる人や管理する人などというのは限られていて、例えば全員が全員偉くなったり管理する人になったりするとそれは偉くなったり管理者になったりする意味がなくなってしまいまた誰が誰に従うのか、といった新たな主従関係の問題も発生してくるように思います。

自ら特異になって違いを見出す必要がある



参照:ロケットニュース

【動画あり】ニュース番組の生放送中に起こったハプニング9連発!より

 

メディアは給料に見合った仕事をしているか

海外の場合は多少事情が違うと思いますが、少なくとも日本ではメディアの人間になるということは優秀な人なのだと思われがちです。 ですからその分だけ給料も多くもらうこともあるのだと思います。

 しかそうしたメディアの方が多くの給料をもらうこと以上、つまり、給料に見合っただけの特異なことをしているかというと疑問です。
 それが人だけでなくメディアの内容にも表されていて、だからこそ世界的に見ても日本のメディアは閉鎖的だといわれている部分があるのだと思います。



なぜ閉鎖的なのか

こうした閉鎖さ具合はメディアの人間と国の管理を任されている者との深い関係性、同窓による他の排除があると一部で指摘しています。つまり学校などでも一緒に学んできたから親近感が湧くだから他のものを排除するといった部分があるのだと思います。

 また少なくとも現在の日本のメディアは多くがスポンサーの都合によって記事の書かれることが多く、つまり何かしらの偏向されて記事が書かれているからという部分もあるのでしょう。

 確かにそうした誰かしらの意図に沿って記事を書くことで自分の収入も上がりますし、相手の株も上がったりするのでしょう。しかしそれだとメディアが企業にとってのただの広告塔なだけであり、全く持ってメディアとしての意味を持っていません。

 また、全員が全員そうだという話ではありませんが、場合によっては、伝えてやっているのだ、という気持ちから報道を受ける側に対して傲慢になる可能性もあると思います。


いっそ独立した機関を有するのも一つ

そこで例えばアメリカで言うところの財団法人や経済研究所のように、企業を使うことはあっても、それに頼り切らない存在として真実を報道するようなところがあってもいいように思います。


メディアのありかたを我々の生活に応用してみる

翻って、私たちも誰かに意図されて動くるのではなく自分から積極的に動くことが重要なのだと思います。

 特異になってしまったと嘆くのではなく、むしろ自分から特異になってやる、くらいの気負いや勇気を持つことで生きやすい社会になるのではないかと思います。

2015年8月12日水曜日

引き際を決めることの重要性


情報元:WSJ

異物混入響き赤字262億円=全店売上高27%減—日本マクドナルドより


引き際は非常に難しい

事業をする上で難しいのはいつ撤退するかということだと思います。これを間違えると大きな痛手を負わざるを得ません。

 株や為替などの場合もそうですが勝っている間はそれはそれでいいのだと思います。

 一方でその勝っている状態がいつまで続くか、どの時点で撤退するかといったことは常に考える必要があり、すぐに決断をする必要のあることもあります。


マクドナルドは実に残念

その点確実にマクドナルドは引き際を間違えたのではないか、あるいはこのまままだと伸びる見込みは低いのではないかと考えます。

 確かに藤田田率いる日本マクドナルドは日本の食事にハンバーガーというものを根付かせ、それを大衆食として広げてきました。

 しかし創業者の死後、最近のマクドナルドを見ると異物混入に対して謝らない不誠実さや、質よりスピードという経営方針など実に見苦しい活動をしているといわざるを得ません。


引き際を見極める方法

こうした引き際は自分で決めるのが一番いいですが、それができないのでしたら誰かに判断してもらうのがいいと思います。

 そのためには「引く」べきタイミングを何らかの基準に沿って、頭脳明晰のうちに考えておく必要があります。あるは善意ある人の忠告を素直に受け付けるか

 今のマクドナルドの状況で冷静な判断をできるかたがいるのかわかりませんが、現状のままですと末期がんの患者ががんを宣告されたときに必死に生きようとしていることと同様、納得することは難しいのだろうと感じます。

 ですからこうした苦難な状況なときこそトップの決断の役割と責任は大きいです。

遊んで主体性を持って


ゲームで遊ぶ娯楽型の通所介護を規制へ…神戸市より


遊びは生きる糧

人間は遊ぶということで生きている部分があります。遊びがないと生きているという実感や気力がなくなるのかもしれません。

 ではどのような遊びが良いのかというと、誰しもが納得するような回答はありません。

 ただ短絡的な快楽を求めるためのゲームはすることに意味が無いと考えています。


行政主体の事業はつまらない 

介護の現場で細かく見ていくと軍人将棋なら良いのか?経営戦略を練る会議もゲームといえるのでは?など細かく見ていったらさっぱり基準がわかりません。

 ただ、後押ししているのは行政の方々なので、彼らからすると、できるだけ活動されるのは福祉予算が増えるため困ると考えられます。となると行政は活動を停止する側に回ります。

 もしくは停止させることは無いにしても学校の授業と同じように、みんな画一化されたサービスになると考えられます。すると利用者、職員もまったく面白みが無く、誰しもが活動をさせ“られる”状況になると考えます。


遊びの中身を確認。行政は後押し的な存在で。

ですから、というよりだからこそ介護の場合には、実際どのようなことをするのが良いのかを考える必要があるのかも知れません。

 遊びの形がまずいのではなく、遊びの内容はどうだったのかと考えることです。

 また行政は前に出てきて規制を押し出すのではなく個人の活動を後押しするようなそんな“舞台裏”的存在であったほうがよいのではないでしょうか。

 確かに行政が概念を出すことで活動が活発化しますが、伸びてきだした途端に規制規制では、せっかく育ってきたものも行政につぶされる、あるいは行にとって都合のいい存在になってしまう、と考えます。

いじめへの対応策


子どもの自殺、9月1日最多 夏・春休みの終わりに集中より



いじめはなくならない

いじめ自殺への第三者による対処は、原因を究明し、それを減らす科学的方法といじめと自殺をわけ、自殺を減らす社会学的方法とがあります。

 しかし良く考えてみるといじめは生物の生存競争と考えられます。ですからどんな原因撲滅策をとったとしても結局のところ無くならないと思います。なぜならいじめを否定したら生きる意味がなくなるからです。


逃げる方法

生きるためにいじめが発生していると考えるならば、それへの対策として極端に言うと①戦うか②逃げるかしかありません。

 前者は戦うことの苦痛は伴うものの以後の生活は快適にできる可能性があります。一方後者はそのときは楽ですが以後はつらくなる可能性はあります。

 どちらの策をとってもいいとは思いますが、さすがにこの世から去る自殺が唯一の正解だとは思いません。自殺するくらいならどこか誰も知らない場所にでも逃げたほうがいいです。死んでしまうと以後の楽しいこともすべて無しなしになってしまいます。


自殺した生徒、その周りは?

そもそもいじめを自殺をしてしまうような子には回りに相談ができる人はいなかったのか、という部分に疑問がわきます。

 ケータイの普及、個人の尊重などがなされるようになるにつれ自分ひとりで責任を負うことが多くなっています。とするならばひょっとすると本来協力する善良な人でさえも敵と認識してしまう部分があるのではないかと考えます。

 そのような誤った認識の子が自殺するのだとするならば、たとえ今、小中学生で自殺をしなかったとしても以後高校、大学、社会人など成長をしていっても常に自殺のリスクが付きまとう危険性があります。


策として真の友達を作る。

だとするならば、常にそうした自殺への道を踏みとどませられるような友達、何でもいえるような友達を作ることが必要になる気がします。

 つまり「真の友達」を作ることです。あるいは身近な人で真の知り合いを作る方法もありなのかも入れません。

 表面的な友達、つまりその場だけを取り繕うような友達はできやすいです。しかしそうした薄っぺらい友達ではなく、良いも悪いも真剣に考えてくれるような友達フラットに付き合える友達ができれば一番いいのではないかと考えます。

 そうした友達をネットで探してもいいのではないでしょうか。

 ただし真の友達を作ろうと考える場合には自分がすべてさらけ出せる勇気を持つ必要があります。そうした勇気を持てるかどうか、またそうした勇気を受け入れられるか、といった状況の見極める眼は必常に必要です。

2015年8月11日火曜日

健康教への疑問

牛肉:「霜降り」より「赤身」人気上昇中 健康志向後押し

健康教の蔓延

いまやコンビに行くとサプリなども平然と置いていたりします。皆さんはそんなに長生きして何が目的なのでしょうか。それほど普段考えないのではないでしょうか。

 健康のひとつの指標として、毎日食べる食物があります。例えば肉について、私は基本的に赤身が好きで脂身はあまり食べないのですが、健康健康とメディアに言われるまま、それを無抵抗に受け入れ、脂身を受け入れる人などもいらっしゃいます。また一時期のおもいっきりテレビでやっていたようにバナナだ、納豆だと健康になることを第一に考え西へ東へ走っている方々もいます。

 もちろんそれで満足ならばいいとは思います。ただ、それほど長生きしてどうするかと思うわけです。

 毎日生きてあーでもないこーでもないと他人に文句を言いながら苦痛を感じながら生きていくことに果たして意味があるのだろうかと。それでしたらむしろいっそのこと健康になることや健康に執着することをあきらめて、一日一日を充実させたほうが良いのではないか。そう思う部分があるのです。

情報発信の裏を読む


参考元:読売新聞

大卒就職率72・6%、21年ぶりに7割台回復より



世の中気分で回っている部分がある。

経済は誰かの気分で回っていると言う言葉があります。誰かがこうだと思ったことを契機に、状況が変動する場合があるということです。景気などはその好例で、景気が良くなるという「気分」から消費者の動きが活発になると言われることもあります。

 私の就職や転職をする時期にはいつも不景気が重なり、(2004年就職氷河期 2011年リーマンショックの余波)景気が良くないときに私はいつも世に出るのですがそれはそれで、生きる力が養われる意味で有用だと考えています。


経済は上向いてきている。それには意図がある。

そんななか、現在は大学生の100人中70人が就職しているそうです。このようなことを書くということはメディアや国が景気の良くなっていることをアピールしていて、再来年度の消費税増税に向けて動き出している部分があるのだと思います。

 確かに日経平均株価も20000円台を推移視していますし、景気が良くなっていると感じる部分もあるのでしょう。しかし、またそれがゆえにと言いますか、このような状況であるからこそ次にどのようにするのかを考える必要があります。


景気が上向いてきているときだからこそ足元を固める

確かに周りが景気があるからそれに乗ればいいやーとのんきに考える部分もあるのかもしれませんが、そうした浮ついた気持ちに甘んじることなく、むしろこうした好景気の時期だからこそ自分が生きるための方法を考える余裕が欲しいです。

 一般的に景気は良くなったり悪くなったりを繰り返します。「止まない雨は無い」と言う言葉があるように今は好景気たなめ平時あると言えますが、いつ乱れた時になるかわかりません。ですからそうした乱れた時に備え、今の段階から蓄えを集めておく必要がある、と考えています。

そのためにはたな卸しや振り返りが重要です。

場合によっては情報を疑うことも必要


牛のげっぷ中のメタンを3割減らす妙薬を発見より


 研究としては面白いかもしれないが果たしてそれを研究してどうするの?という研究が世の中には無いわけではありません。牛のゲップの研究もそのひとつだと思います。もちろんそうした興味から来る研究はm今後生きる意味でも重要な部分はあるかもしれませんが、もっとその意図の裏を考える必要があります。


周りでよくみる嘘


 一時期家電メーカーによる、新しい電気製品を買い換える口実として地球温暖化と、それを押さえるためのエコ何とかとかいうのがあったのを思い出しました。

 しかしこれは間違いである可能性はあります。また二酸化炭素同様に牛のゲップも減らさねばならない、といわれていることもあると思いますが地球温暖化の原因ともいえない可能性もありますし、そもそも地球温暖化が地球に悪影響を及ぼしていない可能性もあります。マイナスイオンが発生する機械でもそうですがそれらしい似非科学にだまされないように注意したいです。

 本当に二酸化炭素が地球温暖化の原因だと考え、且つそれが二酸化炭素やメタンのせいであったとしても地球温暖化を防ぐことを真剣に考えた場合は、牛のゲップのメタンを必死に減らすよりは車を乗らずに排気ガスを押さえたほうが効果的なのではないかと考えます。


論文は普通不都合は書かない


 また研究の論文は基本的にいいことしか書きません。悪いことは基本的には隠すものです。ですからいくらメタンの効果が減らせたとしても、それがどのような意味があるのか何か提示されたとするならばそれが本当に意味があるのか、よく考える必要があると思います。

 そのためにはわかっている事実を積み上げる、そういった方法を知ることも必要ではないでしょうか。

ITが発達している、それを如何に使うかが重要


参考元;ヤフーニュース

クリエイティブな仕事は人工知能に奪われる!? 2045年問題の行方より




最近のPCの発達具合

最近、LINEにおいて、MICROSOFTのAIを用いた女子高生の「りんね」という名前の公式アカウントが人気です。まるで本当の人間のように答えを返してくれるとありました。そのような意味では人間に近いAIを搭載するようになっています。

 チェスでも人間より機械が勝つ、といった結果も先日は出ていたのを思い出しました。


発達したことにより得られるもの失うもの

これも半導体技術が発達したからなのだと思います。確かに人間に比べてより高性能で、かつ忘れることは少なく、より完璧な社会になりつつあるといえるのかもしれません。しかし、完璧になってしまうのはそれはそれで実は結構寂しくまた生きることに息苦しさを感じるのではなかろうかと感じます。

 一例として携帯電話が発達したことがあります。これによりいつでも電話ができるようになりました。またメールが発達したことにより、休日でも仕事のメールを確認できるようになっています。このような便利なことが起こる反面、実はわれわれの心には余裕がなくなってきてしまっているのではないかと考えています。

 となると、心の専門家という職業がもっと必要になる可能性があり、その意味では私のような生きることを考える人間にとっては仕事が増える意味でありがたいことといえるのかもしれないのですが、それもよしあしで件数が多くなるとそれはそれで問題です。


馬鹿とはさみは使いよう

そこで考えることはこうしたいわゆるハイテクな機械を如何に自分主体で使うか、ということが重要なのだと思います。日本の言葉には「馬鹿とはさみは使いよう」という言葉もありますが、良いように使おうにも悪用しようにもその使う人しだいという形になるのではないか、と思う部分があるのです。

2015年8月9日日曜日

就職もなんでも目的を持って生きる。


「やりたいことが分からない」就活生が陥る致命的な3つの過ち

より

 

仕事をする機会が減っている


 日本では大学進学率が高く、現在は多くの子供が大学に生き、学士を取得する。大学に行っている以上はいい会社に入りたいと思われる部分があるのかもしれない。

 しかしそれだけでなく、現状を甘んじて受け入れよ、そこから何をつかみとるかも重要ではないかと考える。

 なおかつての日本、明治時代の子供は、大学はおろか、高校さえ行くことなく、中学校や尋常小学校を卒業後はほとんど働きに出ていたという記録がある。(子供と遊び)


大学に行くことで得られること失われること


 確かに大学へ行くことで物事を考える機会ができ、より高尚な学問を身に着けたり、そうした学問を通じて、より高尚な仕事につくことができる部分はある。

 しかし万人がそうした仕事に向いているわけではないし、人間の違いがあることを知ることは必要である。

 一方で学校の教育はあくまで理想的な話で、現実的ではないといわれている。 とすると可能性は育てられているものの、そのおかげで頭でっかちになっている部分から挑戦する機会を失ってしまっていると考えることもできる。


可能性をつぶしている学校という場


 そもそも学校に行くことだけがすべてではない。仕事をしながらでも大学にいくことはできる。むしろ一度社会に出て「学びたい」という欲求に駆られた状態から学問を学ぶ姿勢を持っているほうが、ただ高校や中学のときの成績が良かったからという理由で大学に進学してきた人よりも得られるものが大きいのではないかと考える。

 これは行動に責任を負っているということだ。と同時に目的を持って生きているとも考えられる。ちなみにこうした選択の責任を負うことや行動の目的を持ちながら生きていくということは、中学校卒業までになされる必要があるのかもしれない。なぜなら中学校卒業以降は選択することが多いから。

そこで過去に習う


 つまり行動に目的と責任を持ち、仕事をすることから這い上がることも大切だということだ。

 本気で仕事のすることを考えているのならば大学を休学して仕事で成績を残す方法もあるだろうし、その上で学ぶ必要があるならば復学して学ぶ方法もある。

 いずれにしても、現在の自分の環境において何を掴み取るか、目的を明確化するかということが重要である。

 大学生活でもそうだが、惰性で日々をすごしている場合は何も得られない。目的を明確化してこそその中身がわかることもあるのだ。(マインドマップ)

事実に基づいた情報を発信する。


参考元:産経新聞

「中韓の主張を子供に刷り込まないでほしい」長崎被爆の伝承妨げる“政治の語り部” 島原・有明中の校長に聞く


政治は誰が正しいという話は無い。 

政治的な問題は互いに自分の利益になるように働く、だからどちらが正しいということは無い。
 正しい正解が無いゆえ、えてして声の大きいほうが主張を採用されてしまう場合がある。これは問題である。


正しいことが無いだけで何をよりどころとするか。

そこで声の大きさといった感情に訴えるものではなく、理論的に論を通す、事実に基づいた主張をするといった考え方が大事になるような気がする。

 これは政治的な部分だけでなくても、我々の普段の生活でも生かすことができるのではないか。確かに感情的に言うことはラクだしそれで自分の主張が通るのだったら誰しもそれを推し進めようとするのかもしれない。

 しかし事実に基づいた論にはいくら声が大きくても勝てない。これは十分知る必要があるように思う。

神に対する暴挙?


引用元
産経新聞

「夜間同居」で愛深める2頭…ホッキョクグマ繁殖物語【都会で生きる動物たち】第2部(中)


人間は特別か?そのようなことも無いのでは?


 人間が多くいるように生物も多い。そうした多くの生物が繁殖する中である生物が他の生物に性交を促す(今回の場合人間が熊の繁殖を促す、あるいは一人の人間が他の人間の繁殖を促す)ということはある意味神に対する暴挙である。

 われわれでさえも隠れて性交をしているというのにみなの見ているような場所で性交をさせるといったことは間違っているように思う。


お客さんの気持ち、研究者の気持ち

確かに珍しい動物という部分もあるのだろうし、保護したいと思う気持ちもある。生物学的に興味があるのもわからなくは無い。しかしそれが行過ぎると人間がすべてを改変できると思い上がる結果になりかねない。

 また別の視点で考えるとm見せたい動物というのもあるかも知れない。人間でも露出狂の方がいるように、動物でもそうした性的嗜好を出すことに快感を見出す場合もあるかもしれないが、だとしてもどうなのかと考える。
 
これは生物倫理を超えている意味で問題である。


気持ちに対処する。


 そこでどのように考えるか、ひとつにほうっておくことがある。

 結局はなるようにしかならないし、絶滅する運命の生物は絶滅すると考えるのだ。

 ただ、こうしたことをほうっておけるだけの「待てる姿勢」を現代人がもてるか疑問ではある。

 ものが手に入りやすい現代社会で「待てる姿勢」やいうなれば「ほうって置ける余裕」をはどうしたら持てるのだろうか。それには自分ではどうしようもできないことを知るしかない、と思うのだが。